東北・北陸諸藩の動き

大久保が蓑田にこの書簡を出した明治元年閏四月二十三日前後の東北・北陸諸藩の動きは次の通りである。
鳥羽伏見の戦の後の二月十二日に会津藩主松平容保は朝廷に歎願書を呈出し、既に藩地におり、恭順謹慎の意向であるという旨を伝えた。
しかし、公卿九条道孝を奥羽鎮撫総督とする薩長軍は会津征討を唱え、東北諸藩にその朝命を下した。これに対し仙台藩においては、会津を救済するべきか攻撃するべきか藩論が割れたが、最終的には会津国境に出兵し、会津に圧力をかけながら降伏を求め、和平の道を探るというものであった。
そして仙台藩各地から兵が集められ、四月十一日には仙台藩主伊達慶邦を総大将として出兵する事となる。しかし会津藩は恭順の姿勢をとっているものの、新政府側が提示する無条件降伏を容れず、いざとなれば戦も辞さないという強気の態度であった。これに対し仙台藩首脳は奥羽列藩重臣に参集を求め、列藩の力で会津の嘆願を薩長政府に認めさせるという戦略をとった。

その後仙台・米沢両藩家老名で松前、南部など二十七藩から奥羽諸藩重臣を召集、閏四月十一日に奥羽列藩会議が開かれ、最終的に二十五藩が会津・仙台・米沢の歎願書を総督府に上程する事に同意し、奥羽越列藩同盟が成立する事となる。
翌日には仙台・米沢両藩主(伊達慶邦・上杉斉憲)は九条を訪ね、奥羽諸藩の決議として会津に寛大な処置を求めた。しかし長州の参謀である世良修蔵はこれを却下し、会津に早々に討ち入るように厳命した。

こうして会津救済は失敗し、奥羽諸藩は連盟で新政府軍に対抗する形となった。奥羽が起つ理由として、太政官建白書を起草した仙台藩参謀の玉虫左太夫は、薩長の参謀であった大山格之助・世良修蔵の両参謀を 「酒色に荒淫、醜聞聞クニ堪ザル事件、枚挙仕リ兼…」と非難し、会津を討つというのは薩長の私怨であり、天皇の意思ではないと記した。
世良らの乱暴ぶりは仙台藩の人々に憎まれ、会津にも世良暗殺を計画する者があった。こうして遂には世良は暗殺され、これにより諸藩の連帯に弾みがつき、閏四月二十三日には再び列藩重臣会議が開かれ、仙台藩が中心となり起草された建白書および盟約書が審議される事となった。
ここで戦略や政策を寝る策定機関として奥羽越公議所を設けるなど、薩長に対抗するべく奥羽諸藩は団結していく。

一方、北越の諸藩の例として長岡藩の動きを挙げる。長岡藩は鳥羽・伏見での状況やその後の新政府の動向に対し、薩長両藩が幼帝を擁して私利を図るものとして強く反発していた背景を持っていた。
明治元年三月、越後の諸藩に北陸道先鋒総督兼鎮撫使の高倉永 を通じて、越後領内に旧幕府や会津などの兵が潜伏しているので、これを討ち取れという新政府の命令が出された。これは越後諸藩に新政府側につくか、旧幕府側につくかの決定を迫るものであった。これに対し越後十一藩は恭順の意を示し、勤皇を誓ったが、総督一行が去るとその意向は消極的になった。越後には幕府領や会津領も多く、旧幕府勢力もまた多くの兵を送り込んでいたのである。そして長岡藩のように、一度勤皇を誓いながらも向背の曖昧な藩も存在していた。このような動きの中、四月になると、薩摩・長州・加賀などの諸藩に討会のため越後出兵が命ぜられる。高倉を北陸道鎮撫総督兼会津征討総督とし、参謀となった黒田了介(清隆)、山県狂介(有朋)の率いる薩摩・長州藩兵らは閏四月十七日頃から越後領内の高田へと集結した。
同二十一日からは進撃が開始され、各地で会津兵との戦闘が始まる。これを受け長岡藩では河合継之助が同二十六日に軍務総督に就任し、新政府側にも旧幕府側にも武装中立の立場を貫くこととなる。
翌五月二日には小千谷において河合と東山道先鋒総督府の軍監の岩村精一郎の会談が行われた。河合は長岡藩の中立の立場を説いたが、岩村は認めず、河合の嘆願も容れられなかったため、長岡藩は新政府軍との戦やむなし、との方向へ進んでいくこととなる。

こうして長岡藩とそれに同調した越後の藩も奥羽越列藩同盟に加わり、奥羽越列藩三十一藩は薩長新政府と全面戦争をする体制に入っていく事となる。
この大久保書簡とこれらの事実を比較してみると、大久保は東北・越後方面の情勢についてもかなりの情報を有していることが窺える。大久保は東北・越後の戦闘を早期に終結させ、国内情勢を安定させる事を急務と考えているが、戊辰戦争は容易には収集がつかず、翌明治二年五月に箱館で榎本軍が降伏するまで長引く結果となるのである。

関連人物
玉虫左太夫(一八二三〜一八六九)
幕末・維新期の陸奥国仙台藩士。万延元年(一八六〇)正月、新見豊前守正興に従いアメリカの文物を視察。帰国後、藩内で開国和平を説くも入れられず、のち藩校養賢堂副学頭に就任。また命により他藩の形成を探索。奥羽越列藩同盟成立に活躍、軍務局副統取。のち佐幕派人物として明治二年(一八六九)四月切腹を命じられ没した。著書に『蝦夷紀行』、『航米日誌』などがある。

世良修蔵(一八三五〜一八六八)
幕末の長州藩の志士。奇兵隊に入隊し書記となり、慶応元年(一八六五)年第二奇兵隊の編成に当たり軍監となる。明治元年(一八六八)三月には奥羽鎮撫総督府下参謀となり、仙台藩に会津藩攻撃を命ずる強硬論を説いた。福島に滞在中、会津藩に対する寛容な処置を請う仙台藩よりの使者が送られたがこれを拒否する。恨みを受け、のちに旅宿で捕らえられて斬殺された。

河合継之助(一八二七〜一八六八)
幕末・維新期の越後国長岡藩士。大政奉還後、討幕派と佐幕派の対立を調停するため藩主名代として上京。新政府に再び徳川に政権を委ねるよう建白したが容れられず、長岡藩は佐幕派として薩長から睨まれることとなった。新政府と会津藩並びに奥羽諸藩との間に中立し、双方の融和を図ろうとするが失敗、奥羽越列藩同盟に加わる。のち戦闘で負傷し、陣没。

参考文献
平尾道雄『戊辰戦争』岬書房 一九七一
『長岡市史 通史編 上』長岡市 一九九六
山川健次郎監修『会津戊辰戦史』マツノ書店 ニ〇〇三
藤原総之助『仙台戊辰史』荒井活版製造所 一九一一
山県有朋『越の山風』東行庵 一九九五

 

 

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